BLOSSOM通信

大晦日

すっかり一人で過ごす大晦日が当たり前になってしまった。

子供のころは、祖父母や叔父叔母がたくさんいる家で歳取りをした。

クリスマスを過ぎるころから、夕食が祖母はテレビの前で正月料理の下ごしらえをしていた。

毎日毎晩、大きな鍋やボールを用意しては、大根や人参を細切りにしたり、黒豆を炊いたりしていた。

その横で、「それは何になるの?」とよく聞いていた記憶がある。

石炭ストーブのそばで、あったまりながら、祖母の手元を、少し曲がった指で包丁を使う手元を見てるのが好きだった。

私の好きな料理はなかったが、大晦日に、一人ずつの膳に盛り付けられた10名以上のおせち料理は、やっぱり特別で、なんだかすごいもののように思えた。

新巻き鮭、なますからうま煮、きんぴらや茶碗蒸しまで。

全部が簡単ではなく、数日の時間をかけられて作られていくのを目の当たりにしていたこともあり、子供の私にはおいしさはわからなかったが、特別感があった。

大晦日の夜は何がなんでも、家族全員が集い、そして叔父たちのためにお酒がでるのも、特別だった。

そういえば28日には、うすと杵が、玄関に用意されて、餅つきをした。

叔母たちが器用にあんこ持ちを丸めたり、お供えを丸めたりしていた。

できた餅を、私は隣近所におすそ分けに行かされた。

でも、隣近所からも同じようなお餅がおすそ分けされてくるのだ。

『ご近所づきあい』だったんだと、今になって気が付く。

子供の私にとっての、師走の風物詩だった。

祖父もそのころから、しめ縄を作り始める。

煙草をくわえながら、むせながら神棚に祀るものまで、作っていた。

大晦日、朝からきれいに掃除をした神棚に火がともされ、お供えもちも飾られる。

人数分の口取りが菓子屋から届くと、うちの歳取りが始まる。

正直、大人の若い叔父たちの話し声は、大きくて喧嘩をしているようにも聞こえて怖かった。

でも、大人の話を聞くのはとても興味をそそり、こんな状況は嫌いではなかった。

テレビに映る紅白歌合戦をなぜか緊張しながら見た。NHKってすごいんだと、思っていた。

画面に映る年末の様子は、宮田輝アナウンサーの司会が“ふるさと”感があふれていて、あったかかった。

選ばれた歌手の感動も、伝わってきた時代だった。

年末の、頑張った人たちの、お祝いのような気がしていた。

祖父が東北人だったこともあってか、テレビから聞こえるふるさとなまりも好きだった。

なぜか、日本人っていいなあと感じられた。

そしてなぜか

紅白が終わったら一年の垢を落としに全員で銭湯に行った。

いい時代だったのかもしれないなあ。

いや、いい時代だった。

『必ず帰る場所がある。必ず迎えてくれる人がいる』

幼心に、目の前に見えるその風景が、それが、大きな確信だった。

つい、昨日のことのようだが、もう30年も40年も前のこと。

叔父や叔母が所帯を持ち、家を出て、私も母と家を出て、祖父母も歳をとり、そんな厳かな大晦日は、もう遠い過去の思い出になってしまった。

私も結婚をし、子供ができ・・・・家族が一年に一回、お嫁さんもお婿さんもその子供たちも、みんな集まって歳取りをするのだろうなあ、と想像していたが・・・

ふと気が付くと、ここ6~7年くらいは一人の歳取りだ。

そう、母が亡くなって、本当に一人の歳取りだ。

寂しいというよりは、

最後の最後まで、母と大晦日を迎えられたこと、

そして、子供たちもそれぞれ家庭を築き、別の場所ではあるが、穏やかに大晦日を迎えていること・・・

なんだか、すごく有り難いこと。

そして、

『必ず帰る場所がある。必ず迎えてくれる人がいる』その思いは確信だ。

子供たちを巣立たせたこの家で、

母と最期まで大晦日を過ごした、私の家で、穏やかに歳取りをしたいと思う。

2015.12.31