BLOSSOM通信

あの時・・・ 遠く母を想う

今年の本屋大賞に選ばれた「コーヒーが冷めないうちに」を読んだ。
「4回泣けます」というコメントに「へえ~」と思いながら
ここ10年以上、どちらかといえば小説よりビジネス書を読みあさっていた自分をふと頭に浮かんだが、
思わず「泣きたい!」と思って手にした本だ。

過去に戻れる喫茶店がある。

人は『過去に、あの時にもし戻れたら…』とついつい考えてしまう。
戻って何ができるか、と言われたら、頭で考えているほどのこことは
きっとできないし、もし、頭で考えていることができたとしても、それが正解とも限らない。
でも、なんとなく・・・もし、もう一度あの時に戻れたら・・・と、想う。

期待…後悔…罪悪感…なんか心の中のもやもやを少しでも処理できたら、という一心が、
あの時は本当はどうだったんだろう?を解決させたくなるのだろう。

明日は「母の日」
自分も母になり、歳を重ね、頭の中のアルバムの写真が増えた。
その写真の一枚一枚にコメントを書きたいのだが、
どうにも表現しがたい写真がある。

それは母が娘に私といる写真。
母娘の想いが重ならないものがある。

この時、母は何を言いたかったんだろう?
この時、母はどんな思いだったんだろう?
どうして笑っているのだろう?
なぜ、笑ってないんだろう?

親って、なんでもわかってる顔して、
しかも言葉にしてくれることが少ない。
あったかく包み込んでくれるけれど、抱きしめている母の手と心は
何と言ってるんだろう?

いい歳をして、最近よく考える。
自分が母親として子供にどう伝えようか…そんなふうに迷うとき、
私の母はどうだったっけ?と、今更ながら思い起こす。

とうに亡くなってしまった母だが、
最後の一日は何も言葉を発さずに逝ってしまった。

あの時・・・・
何か言いたくはなかったのか。
私に伝えることはなかったのか。
いや、私が伝えたいことはなかったのか…。

私は母子家庭で母と二人の生活が長かった。
はじめは、私が仕事に行く母を見送り、
途中は、母が仕事に行く私を見送り、
そして、病院に入院中の認知症の母が、私の帰りを見送り、
最後は私が逝っていく母を見送った。

今アルバムをめくると、
その見送る写真は、全部“無言”なのだ。

幼い私は「行かないで!側に居てよ!」というさみしい気持ちを押し殺して、言葉も飲み込むしかなかった。
云えば、母を困らせる、そして、怒られる。きっと、さみしい目をしてたんだろうな。

母が歳をとり、私が生活を支える側になっていった。
そういえば毎朝玄関で送ってくれた母がいた。
決して楽な生活でもなければ、そのくせ『こんなに働いてるんだから!!』と言わんばかりに
私は二人の子供を母に押し付け、夜遅くまでのお酒の付き合いも、仕事としてくくっていた。
「子供の面倒をちゃんと見ないとダメ。後悔するよ!あんたは母親なんだよ!」
「部下も会社も仕事も大事だなのはわかるけど、子供を一番大事にしなきゃね」
「あんたが頑張ってるから、私も何とかやりくりして孫の面倒をみてるから安心して!」
「たまには親子でゆっくり話がしたいね、そうそうなんかおいしいものでも食べて!」
「ひとりでご飯食べるのはさみしいから、早く帰ってきて一緒にご飯食べたいね」
今振り返ると、きっといろいろ忠告したかったんだろうし、母の願いもあったのかもしれない。

そんな気持ちが全く分からなかったわけではないが、
わかってしまえば、気づいてしまえば、やっと踏ん張っている自分が崩れていきそうで、
素直な優しさを封印するしかできなかった自分にも気づく。
ばかだなあ…お互いに!無理しあって、疲れた目をてしていたんだろうな、二人とも。

母が心臓の手術を受け、認知症を発症し、入院生活やグループホームでの生活は10年くらいにもなってしまった。
実は私たち母娘が別々に暮らすようになったのは、この時期だけだ。
母を一人、施設や病院に残し、私はある時は毎日、病院には週一回顔を出した。
母は歩けるときは、玄関や、階段の降りくちまで私を追って送ってくれた。
「もういいから!」と云うと、ただうなづくだけで、認知症の母はなんとなく微笑んでくれていた。
無言で手をふるだけだった。
なんだか母を病院にあずけっ放しの自分が情けなくて、母のさみしさもよくわかって…だからこそ
私も何も言えなくて「じゃあね」というのが精いっぱいだった。
「もう少し、居てほしい」と母が言い、「そうだね」と私が言えればよかったのに。
迷惑はかけられないという母と、うしろめたさのある娘は、素直になり切れない後悔の目をしていたんだろうな。

そんな母が亡くなってもう9年。
最後は優しい顔をして、ろうそくの灯が消えるように亡くなった母。
眠ったまま亡くなってしまったので、何も話すことがなかった。
私の娘がずっと一緒に居たこともあり、
私は「おばあちゃん、苦しんでないからいいんじゃない、良かった」「ママ(自分)はやれることしたしね」と
自分を肯定するような独り言しか言えなかった。
母がこの世から居なくなるという孤独感があるのに、「さみしい」とも「生きていて}とも言えず、大人のふりを演じてしまった。
そのくせ「ありがとう」のひとことが言えない。
一番言いたいのに、言えない。
「生んでくれたありがとう」「一緒に生きてくれてありがとう」「支えてくれてありがとう」
いっぱいいっぱいの「ありがとう」を言いたいのに…言えなかった。

28歳で独りで私を生んで、
離れることなく一緒に暮らし、その間わがままな娘は結婚もし出産もし、離婚もし再婚もし…、
でも、母とだけは一緒だった。離れられなかった。
81歳で亡くなった母がどんな気持ちで一生を生き抜いたかは、正直わからない。

ただ、なんとなく…
自分のおなかの中で大きくなっていく生命をどうすることもできずに迷って迷っていたのも感じたし、
生んでからは腹をすえ、「この子のための自分の人生」として生きてきたのも感じていた。
朝も昼も夜も働いて、一人娘を育てたのは、意地だったのかなあ。

そして、
私も一人の親の面倒をみたという意地を通したかった。
飢えから目線で、母を看取ろうとしていた。

ばかだなあ、
二人とも
「(素直になれなくて)ごめん」
「(いろいろ支えてくれて)ありがとう」
「(一緒に暮らせてよかった)愛してるよ」
その3つの言葉が言いたかったのに。
でも、最後の最後、感謝を伝える目をしていたと思いたい。

私の記憶の中にいる母は、モダンな女だ。
ゆっくり起きてきて、ラテンのレコードをかけながら、煙草をふかして、コーヒーを飲んでいる。
毎日の日課だ。
そんな母親は好きではなかったけれど、
なんだか今はそんなあなたを目指している自分に気が付き始めています。
やっぱり、そんなあなたの娘でよかったと思う。
かっこよく、意地を張って、もう少し頑張って生きてみるね。

あの時に戻れたら・・・・
コーヒーが冷めにうちに、
どこかの母の日に、そんな話をしたい。
「私もね、なんだかんだ娘とずっと一緒に暮らせてよかったよ!」そう母に言ってほしい。
いつか自分が自分の子供たちに言うように。

母の好きだったコーヒーを入れよう…。