BLOSSOM通信

「明日、ママがいない」

「明日、ママがいない」
このドラマへの色々な意見があるようだ。
 
私も第1回をほんの5分くらい見ただろうか。
あまりに、『子役』の役者たちの演技が真に迫っていて、リアルすぎて、私には受け入れがたかった。
 
内容も、心理、特に“アダルトチルドレン”“インナーチャイルド”などについて少々かじっている私にとっては、
「やめてくれ~っ!!」
「間違ってるぞぉ~っ!」
と叫びたくなりそうだ、と直感した。
 
この、『演技』という疑似体験が、まだ十分な判断力のない子どもにとって、『トラウマ』になって心に残る可能性が否めない。
一生懸命仕事をする子どもゆえに、ソコに入り込んで、ソノ感情をもしかしたら演技ではない自分の感情と取り違えてしまうかもしれない。
 
 
いま、スポンサーが下りたり、児童施設協会や里親会、大学の教授などからの抗議があるらしい。
このドラマをみて、フラッシュバックを起こした若者も実際に居るという。
 
深い影響を、視聴者に与える内容のようだ。
と同時に、それだけのドラマであるなら、出演者にも影響がありそうだ。
 
私が5分しか見ることが出来なかった理由・・・
 
それは、名優の子役たちの真に迫っている演技とその演技の内容。
素晴らしい演技ということは、その役になり切っているということだと思う。
 
大人の俳優だって、役になり切り演じる時、その役が肯定的で前向きな役であれば演じていて楽しいかもしれない。
が、世の中や自分を否定する役を演じることは、簡単ではなく、そこに一線を引いて、現実とドラマの中の自分を区別し、気持ちを切り替えることは容易ではないのではないだろうか。
 
それを、9歳の女の子が、“見事に”演じている。
暗く冷たく、あきらめきったような鋭い反抗的な目。
どんな心で演じているのだろう・・・・そんなふうに考えてしまう。
 
『役者は与えられた役を演じるだけ』共演している大人のベテランの女優はコメントしている。
そう、オトナで、ベテランなら、心のコントロールは可能だろう、いや、コントロールできるのがプロ。
 
でも、いくら名優でも9歳は、れっきとした“コドモ”だ。
 
9歳の頃の私は、『赤毛のアン』に夢中になって、自分が主人公の案だったらと創造力を働かせた。
毎日頭に浮かぶのは、あの物語に出てくる自然であり、友達であり、出来事であり感情だった。
自分に起こる日常と赤毛のアンに起こる出来事を重ねては、目を輝かせて楽しんでいた。
自分がまるでアンであるかのように、口調を真似たり、考え方をまねたり、物の捉え方を真似ていた、とても自然に。
 
たまたま私は、『楽しい事』だったが、これが、そうでなかったら・・・・
 
いくら一芸に秀でていても、子どもはコドモだ。
ものの判断も、現実と想定の中の区別も、出来ないかもしれない。
・・・・そう考えると、ドラマの内容以上に、あの10歳にも満たないコドモの役者たちの精神的な負担を辛く思う。
 
私が親なら・・・・そんな役を演じさせることは辛すぎる。
立派な虐待とも、思える。
 
目を避けてはいけない現実や、壮絶な現実も確かにこの世にはあるだろう。
どこまでを娯楽として見せてもいいのか。
オトナとしての責任は考えるべきだ。
『伝え方(手段)』は熟考すべきなのではないか。
2014.1.24