教育とは、流れる川に筆で字を書くようなもので儚いものだ。
しかしながら、その念いは岩にノミで字を彫るくらいの情熱でやれねばならぬ
私の仕事は、悲観的にみると“明日がない”
講師を生業にしているので、どこかの研修で講師として呼んでもらえれば仕事はあるが、それがなければ働きようがない。収入がない。
ネクラで受身の仕事だ。
研修の舞台があったとしても、自分の熱意が100%相手に伝わるのか・・・それが結果であるとしたら、思い通りの結果になる事は多くはない。
叫び声をあげたくなるほど、ストレスがたまる。
昨日も、約1ヶ月の講座を終えた。
最初は、どうなる事かと、いつも悩む。
年齢差はもちろん、環境や時代や考え方のギャップが、人間関係を作っていく際の妨げになる事を否めない。無言の壁になって立ちはだかっている。
自ら受講しに来ているとしても
顔も上げない。
反応もない。
声も出さない。
活気も元気も無い。
・・・・そんな事は珍しい事ではない。
肉体労働ではないのに、体の疲れが半端ではない日が続く。
「この期間で、このことを理解して欲しい。最終的にはこれを実行に移して欲しい」
と明確に伝えて始めてはみるものの・・・・無反応は続く。
研修期間の中盤に差し掛かると、やっと顔が上がってくる。
眉間のしわも薄くなってくる。
目の輝きが戻ってくる。
自分を真っ向から受け止めてくれる割合が全体の2割。
どんなことをしても拒絶される割合も全体の2割。
残り6割の“どっちでも~”と言う人の目をひきつけ気持ちを開かせるかどうかが、研修の成果にも直結する。
8割の人の賛同を得る!
講師の仕事はそこに尽きる!私の持論だ。
喜ばれるのが当たり前と思いたいが、
恨まれたり、嫌われたり、ウザイと思われたり、
生意気だ、えらぶっている、オンナのくせにと、
反論をもらう事のほうが多いと感じるくらい、それらの言葉で傷つく。
針の穴くらいの小さな心の隙間に、それでもすぅ~っと、熱いものが通せると信じている。
講義内容よりも、私の熱さを伝えたいといつも思う。
時間とカリキュラムを淡々とこなしているだけでも、研修講座は過ぎていく。
いや、反応させ、顔を上げさせ、一体感を創れる講師でありたい。
現代は、情報が豊富で、何より即効果のあるもの、結果の出るものが好まれる時代に、なんと逆行した仕事に熱中しているのか、と考える。
器以上のことを考えているから、毎日、毎回、結構辛いが、
例えば1ヶ月の研修の最終日のほんの30秒、目の前の受講生の目が輝き、目を先に向けてくれる瞬間が嬉しくて、頑張り続けている。
熱く何かに向かってる、そんな想いが、相手の凝り固まった思考や感情を、ほんの少しかもしれないが、影響を与えると信じたい。
ものすごい学歴に後押しされているわけではない。
華々しい企業での経歴に包まれているわけでもない。
その分、本音で生きて来れたかなあ・・・。
なんだか此の頃、人の考え方や目線がおかしいと思う。
もっと優しく、もっと誠実に、もっと責任と思いやりを持って、・・・そんな教育のできる講師でいたい。
いや、そんな事を、目を輝かせて自信たっぷりに言える人間でいたい。
そんな話しをしたときに
中学時代の同級生が教えてくれた言葉です。
教育とは、流れる川に筆で字を書くようなもので儚いものだ。
しかしながら、その念いは岩にノミで字を彫るくらいの情熱でやれねばならぬ
感動!!
ちょっとかっこつけて言うと
私の仕事は、“芸術のごとき終わりのない仕事”
2012.2.23