時間って早いなあと、感じることが多くなった。
ついこの間、高校生だった自分がいる。
ついこの間、子供を産んだ自分もいる。
ついさっき、結婚生活に悩んでいた自分がいて、
ついさっき、仕事を楽しんでいる自分がいた。
そして、今・・・
私の二人の子供たちが、そんな自分の年齢を経てきたことに、改めて気づいている。
子どもたちが小学生の頃、「私に似ないで、活発でよかった!」と思った。
子どもたちが恋をしたとき、「私とは趣味が違う!」と感じた。
子どもたちが仕事を持った時、「私はもっと真剣だった!」と言った。
そんな子供たちが、もう30代のオトナになっている。
私がいろいろ悩んで苦しんでいた年齢を通過している最中だ。
この子たちも、私と同じような悩みを抱えているのかもしれない、とふと思った。
この子たちも、私以上に生き難さを感じているのかもしれない、としみじみ思った。
この子たちは、自分なりにたくましく乗り越えて行くのだろうと、願っている親の自分がいる。
子どもと自分は“違う”といつも思っていた。
子どもの立場は、あくまでも『私の子ども』で、私の保護下にいて私を超すことはもっともっと先のことだと、思いたかった。
いや、立派になってくれることは、嬉しい。でも、私以上に、悩んだり傷つくことをさせたくなかった。
それは、苦しいことや悲しいことは、感じさせたくないという親のエゴかもしれないと思う。
親の私が守ってあげていたい、というオゴリのような気もする。
親の私が感じた以上の辛さや痛みは、遠ざけてやらなきゃと、ええかっこをしたかった。
息子は、札幌を離れ、知り合いも居ない都会で、職を探し、生活をし、家族を持ち・・・。
少ない給料で親子3人、そしてもう一つの命を授かった。
嬉しい出来事である反面、オトコとしての責任を重く感じている事だろう。
仕事もノルマのある世界で、どうモチベーションをコントロールして、頑張っているのだろう。
娘は、夫婦二人の暮らしが続いている。
「子供はいらない!」と言い張る夫との間に、自分の存在の不安も感じ、心が揺れているかもしれない。
娘が夢見ていた生活とのギャップに、将来に対する迷いが生じていてもおかしくはない。
人は思うようにならない壁を一つ一つ越えながら成長していくのだと思う。
それは自然な事で、そんな苦しみもあるからこそ、賢く強くそして優しくなれるのが人。
自分には当てはまる。
自分の友人にも当てはまる。
自分の親にも当てはまっていたことは、最近わかり始めていた。
そうか、私の子どもたちにも当てはまることなのだ・・・・。
娘と息子を過小評価することが、親としての私の気休めになっていたようだ。
娘と息子は乗り越えなければならない壁に当たることなどない人生を送っているだろう、送って欲しいなどと願うのは、
「つまらない人生をあゆみ、成長なんてしなくていい」と言っていたようなものだ。
そして、私は親として、人として、最愛の娘と息子にどう手を差し伸べることが出来るだろう?
私の周りをキャッキャッ声を上げてまとわりついていた子たちが、今はもういない。
私の後ろに隠れたり、私の手を離さなかった子たちは、もう昔の幻。
もしかしたら、
私は私自身にどう手を差し伸べるとよいのかを、考える時期に来ているのかもしれない。
時間って、早い・・・。
2015.1.14