今ころになって、母が話していたことを思い出す。
それは私に向かって、というより、自分の姉妹や誰かに向かって言ってることで、私に教えようとしていたことではなかったように記憶している。
だからこそ、楽しそうだったり、無邪気だった母が思い出されるのかもしれない。
裕福ではない9人兄弟の長女で、戦争という時代も生き、家や家族の犠牲になったと感じていたところもあったように思う。
責任感もあり、お人好しなところもあり、そして少し能天気で・・・。
美人でかなり持てたようだが、男運というか家庭運は・・・どうだったのだろう(笑)
そして、母の話で気になっていたことがある。
「津別に疎開した」という話。
津別という町がどこにあるのか、気にしたこともないが、一度はその街へ行ってみたいと思っている。
疎開だから、楽しくはなかったのだろうが、妹たちを連れて親元を離れ、なにを考えていたのだろう?
どれくらいいたのか、どんな生活だったのか、実は記憶にない。
でも、その妹たちと津別の話をするとき、なんだか愉快そうに見えた。
ろくに食べるものもなく、知った人もいないのに、何を楽しめたのだろう?
とても気になる。
私は母が亡くなるまでずっと一緒に暮らしていたので、結構母のことを知っているのかもしれない。
母が私に話さなかったのは父のことくらいだ。
小学校の修学旅行、妹たちとの喧嘩、小さい弟の死、月寒アンパンがすきだったこと、松竹歌劇団にスカウトされたこと、郵便局で働いていたこと、いろいろ聞き耳もたてていたので、私は知っている。
小学3年生の私は母の職場(キャバレーというところ)にも行ったことがある。
なんだかんだ母の影響は大きい。
1人でも生きていけると思わせてくれたし、どんな仕事でも自分の子供に見せられる仕事をしようと思わせてくれた。
強がりなところも、女らしくないところも、そして責任感も能天気さも親譲りかもしれない。
そして、一つだけ解明できてないのが「津別」。
どんな街なのか、どんな景色なのか、肌で感じてみたい。
きっと、母を亡くして10年。やっと心の整理がついてきたのかもしれない。
だから疑問なところを、解決したいのかな。
大変だったろうに、楽しそうで面白そうな思い出のあるところ。
母があんなに無邪気に笑っていたのだから、何かあるのかも。
それは母の心の中にあることかもしれないけれど、母の思い出がある津別という町に行ってみよう!!
本当に思っています(笑)
私の母は、私に大きな影響を与えたけれど、
私は自分の子供たちにどうなんだろう・・・?
ちょっと負けているかも。
そういえば、60歳を過ぎた母は、昔の恋人と再会してちょっといいムードだったっけ。
これも負けているかも(笑)
いくつになっても親子なんだなぁ・・・
仏壇の母とそんなことを話すこの頃。