BLOSSOM通信

“ひとりではない”と感るために

人の心にある悲しみや辛さは、その本人にしか分からないのかもしれない。たとえようの無い悲しみや苦しみを、口に出せず、ただ飲み込むしかないときもある。どうして分かってくれないのだろう、どうしたら分かってもらえるのだろう・・・いろいろ考えてみるけど、やっぱり人知れず飲み込んでしまうしかないと結論付ける。
『何かあったら助けてあげるよ』と言う言葉はどういう意味だろう?『良い時の幸せを一緒に楽しもうよ』『仕事の手柄は分けようよ』ということだろうか?
私は、一見強そうで、順調に人生を歩んでいるように見られることもありますが、『生きていく』ということは、なんて大変で辛いのかといつも考えてしまう。今は何とか息をすることが出来ても、明日や明後日のことは『不安』。本当にこの努力が実を結ぶのか、この不幸が幸せに変わるのか、将来がどちらかというと暗闇に思える日のほうが多いことは否めません。
『世に中は甘くない』とはよく言う言葉。それも半世紀近く生きてきたらいやおう無く分かること。でも・・・と思いませんか?
幸せや不幸せの基準線を引くのは自分の心だから、どんなことも前向きに明るく考えてポジティブに!大変なことも、乗り越えられる力があるから神様が与えたこと。いつも自分にエールを送ってみますが、確かに疲れきることがある。もう頑張ることはこれ以上無理、このまま楽になれるなら、と・・・・。
生まれたときも死ぬときも、“ひとり”だと言う。でも、生きている間は“ひとり”は寂しいこと。“ひとりじゃない”事を感じていたいものです。
もしかしたら、ひとりではないと言う実感は、自分が誰かのことを真剣に見つめることで得られるのではないかと思うのです。“誰か”は、別に身内ばかりでなく、自分の周囲の小さな人間関係のある“誰か”です。友達だったり、後輩だったり、部下だったり、ただの知り合いのこともあるでしょう。隣にいる“誰か”の話や表情を、きちんと受け止める気持ちをもてれば、そしてその関わりを相手が受け入れてくれたら、ひとりではなくなりますね。
最近は自分勝手で、人の事など考えたくも無いような人が多いけれど、ちょっとだけ真剣な目で人を見ることが必要だと感じます。それが自分を“ひとり”の孤独感から救うことかもしれません。仕事でもプライベートでも。
フリーアナウンサーの女性の衝撃的な死からもう一週間がたちます。年齢の違う私の世代や状況でも他人事ではなく感じました。『あ、私だ・・』とその心情を重ねて見えてしまったのは、私だけでしょうか。